誤った道は塞がれる
人には人生を生きる上で、正しい道に進むこともあれば、誤った道に行ってしまうこともあります。正しい道とは神様が望まれる道のことで、そのことを御心と言ったりもします。逆に自分がどれだけ望んでいたとしても神様から見て御心でないなら、誤った道であり、その道の途中で塞がれたりします。
それが分かるところを聖書で紹介したいと思います。
民数記22章21~30節
明くる朝起きてバラムは、ろばに鞍を置き、モアブのつかさたちと一緒に行った。しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使いは彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、その僕二人も彼と共にいたが、ろばは主の使いが、手に抜き身の剣を持って、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑に入ったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。しかるに主の使いはまたぶどう畑の間の狭い道に立ちふさがっていた。道の両側には石垣があった。ろばは主の使いを見て、石垣にすり寄り、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムは、また、ろばを打った。主の使いはまた先に進んで、狭いところに立ちふさがっていた。そこは右にも左にも、曲がる道がなかったので、ろばは主の使いを見てバラムの下に伏した。そこでバラムは怒りを発し、杖でろばを打った。すると、主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに向かって言った「私が何をしたというのですか。あなたは三度も私を打ったのです。」バラムは、ろばに言った「おまえは私を侮ったからだ。私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうのだが。」ろばはまたバラムに言った「私はあなたが、今日まで長い間乗られたろばではありませんか。私はいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか。」バラムは言った「いや、しなかった」
バラムが誤った道に行こうとしたので、神様がと道を塞がれるというシーンです。ここで大切なのはなぜ道が塞がれているのか考え、道を引き返すことでした。しかし、バラムは自分の意向を成そうとして、ろばを打って自分の道に進もうとします。これが繰り返され、遂にろばを通して神様が語られるというところです。
民数記22章32~34節
主の使いは彼に言った。「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤った道を行くので、私はあなたを妨げようとして出てきたのだ。ろばは私を見て三度も身を巡らして私を避けた。もし、ろばが身を巡らして私を避けなかったなら、私はきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう。」バラムは主の使いに言った。「私は罪を犯しました。あなたが私を留めようとして、道に立ちふさがっておられるのを、私は知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、私は帰りましょう。」
ようやくバラムは自分が誤っていたことに気づいて、帰りました。
これを通して自分にも当てはまることだと思います。自分が誤った道に行こうとした時は神様が立ちふさがって止めようとします。
それに気づき神様の御心の道を進むことができれば、得られるものも多くなるでしょう。
そのように気づいて神様の道に進みたいものですね。
Takomaru
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