善を行なうことで神様の心情が分かる
聖書には人は神様に創造されたと書かれています。
神様は善なる方であり、人は神様に似て創造されたと書かれているので、人も善を行なったり、好んだりします。
私は学生時代に神様のことを学び始めて、少しでも神様のことを知ろうと思い、善なることをしようと心掛けていました。
学び始めて間もない頃、駅近くの商店街を歩いていたときにある人に声をかけられて、とある駅に行きたいからお金を貸してほしいと言われました。
ちゃんと駅名を言われましたが、まあまあ距離と時間のかかる駅でした。
学生でアルバイトをいていたわけではなかった私はお金をそこまで持っていませんでしたが、神様は善なることを行なわれると学んでいたので、神様のことを知ろうと思い、善を行なってみようと考え、お金を貸そうと考えました。
1000円出してみましたが、貸してほしいという割りには返すために連絡先や名前を教えるわけではなく、妙だなと思ったのですが、神様なら善を行なうからそうしようと思い、その時は別れました。
しばらくして、私が用を終えてまた商店街を歩いていたら、さっきお金を貸した人が歩いていました。何でいるのだろうと思って、声をかけてみると、家の鍵を忘れてしまい、家に帰っていたと答えてきました。
その時私は家に帰るのであれば、現金を家に置いていたり、銀行の通帳が家に置いてあるはずだと思って、何でお金がないと言って、私からお金を借りたのですかと聞いてみると、家にもお金がないと答えてきました。
相手は中年のおばさんだったのですが、家に無一文はさすがにないだろうと考え、一緒に警察に来てもらえないかと言ってみました。
すると、貸したはずの1000円ですが、違う1000円を返してきて、これで許してほしいと言われ、結局警察には行かず、別れるようになりました。
神様のように善意を人に施したつもりだったのですが、人はそれを分かるどころか詐欺紛いのことをしてきてイラッとしました。
これを通して、神様は人に善なることをしても、人によってはその善を分かるのではなく、感謝するどころかむしろ悪で接して神様の心情をやきもきさせたり、傷付けたりしまうことがあるのだということを学びました。
神様が愛で善を行ないますが、気づけるかどうかはその人次第です。
神様の善には人もちゃんと気付いて善で報いていきたいものですね。
Takomaru
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